昭和五十四年十月十一日 朝の御理解
御理解第三十七節
「生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい。」
修行に苦労はつきものです。けれども修行として頂くところに先が明るいです。先が楽しいです。苦労を修行とするのではなくて、修行そのものがやはり苦労のない修行はありません。ですから、修行と頂ききる時にその苦労もまあ有り難いのである。楽しいのであるという事になりましょうが。この世は苦の世、苦の世界だとまあ言われます。だから苦しい事を修行と思うてではやっぱり苦しいですね。やはり、苦の世、苦の世界になってしまうです。けれども修行という事になりますとね。もう苦労は当然、修行に苦労はつきもの、しかも何を修行しとるか、それは何によらずです。けれどもそれが身についてくるという楽しさ。私は今日そこんところをね、しきりに感じるのです。
今迄、この世は苦の世、苦の世界だ。確かにそうだと、だからそれを修行だと思わんのというような言い方をしてましたけどそうじゃないですね。お互い信心をさして頂いているのです。だからその信心に修行はつきものとおっしゃるのですからその修行をという事が先になって来ねばいけんのです。
そすと修行に苦労はつきもの、だからもう当然の事としてそれが出来るし、成る程苦しい、きついけれども先が楽しい。この修行をやり抜いた後にはどういう力が頂けるだろうか。どういう有り難い世界が開かれてくるだろうかという事になるでしょうが、もう苦しゅうして苦しゅうしてこたえん。まあけれども信心させてもらう修行とおっしゃるから、これば修行と思うて頂かなならんと思うたらやっぱり苦しいです。
今日はここんところのね、切り替えというでしょうか。成る程学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいというそれなんです。学問が身についていく事が楽しゅうしてこたえん。これがもう学徳と言われる程に、その身に付いてくるといよいよ有り難い。 信心もそこです。この修行を貫いた暁にはおかげが頂ける事が有り難い。しかも言うならそれがいよいよ修行、そしておかげはつきものと言われるそのつきものであるおかげを頂いて、その向こうにある御神徳、ああこれが御神徳というものであろうかと自分の心に感じられるようになったら、もういよいよもって有り難い事になってくるんです。
皆さん今日はそんなところを一つ本気でね、自分の信心修行がどのようになっておるか一つ確かめてみなければいけません。ああもうこのおかげは頂いたなら、朝参りせんでんかばってんといったような事ではですね、これは苦しい苦しい修行ですね。
だから、おかげを頂こう。本気でお徳の世界にも入らせて頂こうとね。そこに合楽で繰り返し言われます、日参、教聴ね、心行、家業の行ね。いいですか。日参、教聴そして心行、家業の行というその修行にもうそのまま、まるとそのままそれになりきらなければいけんですね。それがあなたの修行なんです。それがあなたがおかげを頂く為の修行であり、お徳を頂く為の修行なんですよ、ね。日参、教聴、心行、家業の行ね。それが私、身についてしまうという事がね、そしてそういう心行、家業の行の中に合楽理念が生き生きとしてくる訳です、ね。合楽理念はそういう修行の別じゃない。それに合楽理念を実験さして下さいというもんじゃないね。教聴、心行。日参、教聴ね。そして心行、家業の行ね。
それだけの事が出来る事の内容が合楽理念じゃなからなきゃいけんのです、ね。でなかったら、言わば本当の事にならない、そこに日々その実験していってるその実証がもう確かに頂けるですね。その実証が楽しいのです。有り難いのです。皆さん自分を思うてね。確かに日参はしよる。お話しもこうやって毎日教聴やらしているね。だから、それだけで、事足りた。それだけで修行が積んだという事を思うちゃならんです、ね。
これからが修行なんです。ね、家業そのものを行とする行き方、例えば女の方が包丁一本持たれるでも、包丁の持ち方が違ってくると思うです。お百姓さんが、鍬、鎌を持たれるその鍬、鎌の持ち方使い方が変わってくると思うんです、ね。心行そして家業の行。
もう随分昔の事ですけれども、善導寺の原さんの御主人が洋服屋さんですから、あのうミシン拝むという事をね。只今から御用させて頂きますとミシンを拝んだりそういう思いになった事がなかったけれども、教えを頂けばそしたら洋服屋さんですから大変肩を凝らせて居られた。それが一つの持病のようであった。そういうミシンを拝ませて頂く、只今から修行に取り組ませて頂くというような心にならせて頂いたら、いつの頃からかもう肩のこりを覚えんようになったという一つのこりゃ昔の話なんです、ね。
皆さんが女の方が帰って、言うならば家庭の御用をなさるだろうね。男の方は各自の言うなら会社に勤めておる人、さあ今から田んぼに出なければならない人ね、時にです、家を原さんがミシンを拝まれたような心持ちが生まれてくるね。そこから総てを有り難く頂きますという修行が出来てくるんですね。それが修行なんです。もう今の合楽では表行という事が全廃になっとりますからね、特別に水を被って参って来んならんとか、断食をせんならんとかいったような事はもう合楽ではしてはならん事になってるんですね。それをするならば何々様も昔の金光教も同じ事になってくるんですね。だからそういう行はもう言うならばサラサラと捨て切って、それから家業の行に取り組み、心行に取り組むそういう所からね、観念が変わってくるです。私共の言うならば今迄は仕事と思っておったのが修行という所謂観念が変わってくるです。だから損をするとか儲かるとかいうようなもんじゃないです。
はあこがしこしたっちゃいくらがたしかならんといったような事では、だから行にはならんのです。それこそ、鍬を持つ手に有り難涙がこぼれる。天地の御恩徳を思うただけでも感動する。そういうものが生まれてくるんですね。只今から御用さしてもらいます。只今から修行に入らせて頂きますという事なんですね。そして一日を締めくくってご覧なさい、必ず実証が生まれておるですね。
今日は皆さんここんところをね、今迄はこの世は苦の世、苦の世界だと思うとった。
金光教では、この苦の世、苦の世界をこれを修行と思うのが、それが金光教だと思うておった。ところが、それではやはり苦労は苦労ですね。ま修行と思うてきつかばってん、苦しかけれどもという事になるんです。けれども信心にならすべての事がそうですけれども、特に、んならあの世までも、この世にも残しておけれる、あの世にも持って行けるという程しの御神徳を受ける事の為の修行なんですね。四六時中がだから修行なんです、ね。 修行には苦労はつきものですね。つきものだけれども、この苦労そのものを向かい打つというか頂き、言うなら合掌して受けていく事が出来るのですね。そこにはね、必ず実証が生まれてくるですね。それこそ持病であった肩凝りがいつの間にか本当におかげで此の頃は肩の凝るという事がありません。壮年部会に出て来られる時にいつもそれを言うておられまた。
だから、時々はミシンを拝む事を忘れる事もあるけれどもね。あらっ〃と思うては拝み直して仕事にかかると、こういう訳なんですね。それが身についてしまうという事ね。 日参、教聴そして心行、家業の行、その中に合楽理念が生き生きとして生きずいてくる。ああ、今日は疲れた。けれども本当にもうクタクタになる程しにお使い回しを頂いてね、有り難いという事になるわけです。
学者が年をとっても眼鏡を掛けて本を読むようなものであろうぞいというのは、今日私が皆さんに聞いて頂いたような修行を繰り返させて頂いて初めて実感が出来るのじゃないでしょうかね。苦労を先にかけてはいけません。もうのっけからいわば修行なんです。それは、私共が信心を頂いてるのですから、信心に修行はつきものです。それに必ずおかげは寄り添うようについて来るでしょう。いらんと言うてもお徳はついてくるでしょう。ね、それが楽しいのです。それが有り難いのです、ね。
ああ、この年になって眼鏡までかけちから本ば読まんならんというのじゃないです。新たな学問の分野というものが開けてくる、言うならばこれが学徳でもあろうかという人間も出来てくるね。それが有り難いのです。それが楽しいのです。信心も同じ事が言えるのじゃないでしょうかね。 どうぞ。